世田谷区長は自身の著書「麹町中学に死の花束を」の世界観で条例をつくろうとしてないか。
世田谷区議会議員、桃野芳文です。
今日のブログも先の区議会本会議での質問から。
現在「世田谷区子ども条例」の改正に向けた検討が進んでいます。
こちら関連ブログ。
区長は子ども条例の改正について「広く子ども達から聞いた意見を踏まえて条文を検討した」と言っていますが、現に改正素案を見ると、前文には子どもたちが自ら語ったような文体で「子どもの想い」そして「大人へのメッセージ」の記述があり、そこには、私たちの言葉や想いをしっかり受け止め「否定」じゃなく「肯定」してください。「できるかできない」じゃなく、「やったかやっていない」で評価し、頑張ったことをほめてください。とあります。
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しかし、子どもが言ったことでも、肯定できないこと、否定すべきことはあるでしょう。世の中には「頑張ったんだからできなくてもいいよ」で済まされないこともあります。
例えば夏休みの宿題をやってなくても、子どもが「やろうと頑張りはしました。褒めてください」と言ったら先生や親は子どもを褒めるべきなのでしょうか。
改正素案には「子どもの権利条約の理念に基づき、この条例を制定します」とあります。
そして、その条約の前文には「児童は、身体的及び精神的に未熟であるため、その出生の前後において、適当な法的保護を含む特別な保護及び世話を必要とする。」と示されています。
子どもは身体的、精神的に未熟な存在、言い換えれば発展途上です。子どもはこれから大人になるための準備期間とも言えます。その準備期間に大人がなすべきことは、子どもを肯定すること、褒めることだけではないはずです。
仮にそうだとすれば、子どもが学校を卒業するなどし、一般的には大人だとみなされるその瞬間、当人は天地がひっくり返るような衝撃に襲われるのではないでしょうか。世の中は、できていなくても頑張ったのなら褒められるという世界ではありません。
子どもの権利条約の第12条、第1項では、子どもの意見表明権について「締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。」とあります。
条約でも、児童の意見であればなんでも聞くのではなく、年齢や成熟度に応じて考慮するとしているのです。
もちろん桃野は、大人が子どもの意見を聞くこと、それ自体を否定するつもりは全くありません。又子どもの弱さにつけ込んで権利を侵害する大人を無くさなければならないとも思います。
しかし今般の改正素案にある、子どもの意見は如何なる意見も全て肯定する、やるべきことをやらなくても本人が「やろうとはした」のであれば褒める、かのように読み取れる内容は改めるべきです。
条例では”猫可愛がり”ではなく、子ども達が社会の中で「生きる力」をどう育んでいくかにも焦点を当てる必要があるのではないでしょうか。
区長はかつて「麹町中学に死の花束を」というおどろおどろしい題名の本を書いています。自身が中学生時代に大人に権利を侵害されたとの思いが強いのでしょう。区長はその個人的な憤懣、怨嗟に引きずられて条例を作ろうとしてはいないでしょうか。
区長には自分自身を見つめ直し、広く世田谷区民のための条例となるよう考えてもらいたいと思います。
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