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2011-10-17

放射能の恐怖を心に刻む

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先日、福島県浪江町から避難して来られた方とお話をさせていただきました。
仮にAさんとしましょう。
東日本大震災が起きた3月11日から後に起きた事について。
Aさんは、怒り、不安、疑念、様々な感情を吐露しながら、自分の身に起きたことを赤裸々に語ってくださいました。
3月11日の午後2:46。
彼女が感じたのは、「私、死ぬんだな」と感じる程の大きな揺れ。
振れが収まって我に返ると、家じゅうがメチャクチャになる被害。
幸い、大きな怪我はなく、その日は、相次いで襲ってくる余震に身を固くしながら、散乱した家の片づけなどして過ごしたそうです。
彼女の家は、電話は不通になってしまったものの、電気、水道、ガスは使用できたので、その時点では、家を離れて避難する必要は無いと考えていたと言います。
ところが、翌3月12日の朝6:30ごろ、町内放送で「放射能者漏れの”恐れ”があるので、114号を通って津島に逃げてください」と繰り返し放送が。
家族4人と犬。
放送の内容に従って、車で津島へ。
後に、津島は放射性物質が風に流され、汚染度が高かった地域と知ることになります。
放射能漏れのレベルについて、何も知らされない無い中です。
Aさん一家は「とりあえず避難しよう。明日には帰れるかな」という気持ちだった。
移動中、ラジオでは、放射能について、「影響のないレベル」と放送していたので、何の疑念を抱くこともなく、窓を開けて、車を走らせていた。
そんなことを語ってくれました。
津島についても避難所は人であふれていました。
Aさん家族は、腰を落ち着ける場所がなく、車の中から出たり、入ったり。
また、避難所に、食料が潤沢にあるわけではなく、諍いが起きることも珍しくなかったようです。
そのうち、どこからか「津島は危ない」という情報が入り、避難所にいた人がみるみる減っていく。
Aさん家族も、意を決します。
3月12日の夜8:00。
埼玉の身寄りを訪ねて出発。
関東方面に向かう道には、福島ナンバー、いわきナンバーの車があふれ、途中のコンビニエンスストアにはほとんど商品が無い。不安な気持ちと、疲れた体で埼玉に着いたのは、翌13日の朝7:00。
その後、家族は離れ離れになり、それぞれの地で、避難生活を送っています。
Aさんが、震災以降、防護服を着て、自宅に入れたのは一度きり。
私の故郷、浪江。
もう人が住めない町になってしまったのだろうか。
そう感じながらの日々。
Aさんは言います。
私もきっと、被ばくしてしまっているでしょう。
何故、ラジオで、「放射能は影響のないレベル」と放送されたのでしょう。
何故、町内放送では、危険な「津島に避難してください」と放送されたのでしょう。
何故、浪江の人々には、本当の事を教えてくれなかったのでしょう。
私は、ただAさんの言葉に耳を傾けることしかできませんでした。
放射能の恐怖が、罪もない人の人生を奪う。
このことを深く心に刻みつけました。

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